退院後の生活
キレキレの動きは難しいけどそれなりには動かせる。
動きはぎこちなく見えるし、初対面の人からは痛そうに見えるらしい。
これが脳卒中の行為症の片麻痺というやつに私はなってしまったんだ。
あの時もっと早く病院に行っていたら‥。
私が馬鹿だからこんな病気の予防もできずに、
症状が出てからなんて遅すぎるに決まってる。
しなやかで自然な動きが難しいがあまり左手を意識しないようにしていた。痛みはないので重い物は手のひらで支えれば持てるし、掴めるが力の入れ具合の調整ができないので、掴みすぎて、柔らかい物は潰してしまう。
毎日リハビリを続け最初の入院から半年が経ち症状も固定され、加療も終わったのでめでたく退院になったが、ちっともめでたくないし嬉しくなかった。らんちゃん似のおばさんとは連絡先を交換して一足先に退院した。
たちまち実家に戻ったが以前乗っていた車はもう売られていたし、医者からは車の運転は出来ないし仕事もできないので今後の生活についてご家族と話し合った方が良いと言われた。
何を話し合うんだろう。廃人のような生活を毎日送るしかないの?
私は負けず嫌いだったからそんな医者の言葉は間に受けていなかった。
私はは30歳という若さで絶望を味わった。
もう半分死んだと思って生きていくしかない。
これからどうやって生きていけばいいんだろう。
子供二人はどうやって育てていく?
一体何の因果応報なの?
考えても考えても絶望しかない。
真っ暗闇の中にいる気分だった。
収入源もなく両親に頼りっ放しで申し訳ないし側から見たらニートのような生活をしている自分が情けなかった。
このままじゃいけないと思った。
娘たちにも頑張るお母さんの姿を見せたかったしいつも思うようにいかない気持ちがさらにイライラさせ、
母親とはよく口論にもなった。
とにかくできることから始めよう。
毎日夕方からウォーキングをすることにした。
幸い左足は麻痺が軽かったので歩行に支障はなかったけど実家の狭い階段は一段ずつしか昇降できなかったけど一月もすれば普通に登れてた。
発症前は正社員で働いていたので、前職の上司が傷病手当ての手続きを勧めてくれ
すぐに手続きをした。