脳梗塞ヘルパー

脳梗塞ヘルパー

再発

31歳の6月に私は再婚した。

しかし結婚生活は順風満帆とはいかなかった。

相手の連れ子と義母私達親子の6人家族になり、車で2時間の隣町に引っ越した。

私の麻痺は姑にバカにされた。

「あれで仕事できるん?家事すらできんのんじゃない?」

と夫と話す声が聞こえた。

悔しかったからすぐに再就職先を探した。

毎日家事もした。

私の再就職先はショートステイという施設に決まった。訪問介護では生活が厳しいと思ったので、せめて自分と娘2人分の食いぶちくらいは稼ぎたいと思い、夫や姑には負担に思われたくなかった。

夜勤があるので、娘達の心配はあったが幸い今は姑がいる。

夜間の心配と朝の学校の送り出しなど、お願いできたので、私は仕事に集中できて感謝していた。

表向きは良い家族関係に見えたかもしれないが、

私にとっては悪夢の始まりだった。

それは決まって夜勤明けの日で、

娘達が夜中寝ていると酒に酔った姑が娘達の部屋の物を蹴り倒しながら大声で喚き散らすから眠れなかったと娘達は言う。

学校から帰って来ても鍵が閉まっていて何回チャイムを鳴らしても開けてくれず、暑い夏の日は汗だくで喉がカラカラになりながらひたすら戸が開くまで待っていた。など

でも実の孫息子が帰って来たのが分かるとようやく開けてくれたとか

立場の強かった姑には逆らえず、娘達を守ってあげられなかった。旦那に姑の事を伝えても真剣に話を聞いてくれなかった。

 

子供達の心配もありながら仕事は続けないといけない状況の中仕事帰りに寄ったスーパーで

自分の体の異変に気付いた。

買い物を終え車に戻る時、買い物袋を持った左手から何回も袋を落としてしまう。

明らかに痺れを感じた。

間違いない。確信した。

再発だと思った私は

翌日隣町の大きい病院に行き検査した。

MRIの結果新しい脳梗塞の陰が出来ていた。

医師の説明では、

再発を繰り返すと麻痺の状態レベルが1段階づつ落ちていくので、薬の飲み忘れや、強いストレス、原因因子を取り除く事など、日常生活において気をつけてもらいたい事を沢山説明された。この時にまだ辞められていなかったタバコを絶対に辞めようと決意した。タバコって辞めて気づいたのが「依存」なんだよね。

依存体質の人はタバコやお酒に人‥色々なものに依存して自分を保とうとする。

寂しさなんかもそうかもしれない。

紛らわせる事なんてないんだけどね。つまりは自分自身の弱さがそうさせてしまう。

これに気づくようになるのはずっとずっと後の事になるんだけど‥。

脳梗塞発症前は過食傾向だったのも勿論原因の一つだったんだけど(^^;;

だから当時は体重も人生でMAXだった。

産前より太っていました。

それが再婚してからは20キロも痩せたというのに、再発してしまった。

絶対に禁煙とストレス解消法を考えていかなくてはいけない。

入院生活中、娘達の心配が一番に頭をよぎった。

自分がこんなに病弱な為に子ども達に十分な愛情を注いでやれない事、他人の力を借りないと育ててやれない不甲斐なさに涙が出て来た。

何の為に産まれて、どんな使命の為に生かされているんだろう。

川島あいの「天使たちのメロディ」

私の好きな歌。下手くそだけど口づさんでいた。

思い返せば退院してから再婚するまでは毎月通院もして、服薬も欠かさなかったのに、

再婚して生活保護も切ってしまってからは

経済的な事もあり通院も服薬もまともに出来ていなかったし、ストレスも感じていた。

幸せになる為の再婚がかえって子供達を苦しめるだけの不幸な日常になってしまっている。

娘達も母さんと3人で暮らしてた時の方が楽しかった。とよく言うようになった。

ごめんね。母さんの選択は間違っていたかもしれないよ。

私は病室で何時間も1人で泣いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘルパーの仕事

新規の利用者さんのお宅へ伺う時、直属の上司と同行する場合が殆どなのだが、

私の左手の緊張具合を見て、どうしたのか聞かれる事はよくあった。

その際には包み隠さず説明するのだが、(本音は話したくないんです(TT)同情されると辛くなるので)

あまりにも私の負担になりそうな体の大きい人の場合は担当を当てないように配慮してくれた。

利用者の方でも堪のいい人はどうしたの?

と心配してくれるんだが、

やはり強がってしまう性格が邪魔をして、

腱鞘炎なんですよ!

と誤魔化してしまう。

難なく仕事をこなしてしまえたので、深く追求される事はあまりなかった。

でもこの後遺症のおかげで心が折れそうになった事は何度もあった。

不審に思った利用者に担当を外されたり、

心ない言葉を言ってくる方も居る。

高齢者の方でも意地悪な性格の人はいくらでもいる。

何度ももう辞めようかと思っては

仕事がしたい!誰かの役に立ちたい!という気持ちの方が勝ってしまい。悩んで悩んで悩んだ挙句続けてきた。

自分がこんなだからかな‥。

全く自信もないし、情けないなって思うし、この感情をぶつけるところもない。

やっぱり誰かに必要とされたい。

こんな人間でも誰かの役に立つなら‥。

その気持ちは40代になった

今もずっと変わらないし、私の生きるモチベーションになっていると思う。

私は3人兄弟で、長女の私の下に弟、妹がいて

9つ下の妹はだけはきっと、私の為に母が産んでくれたのではないかと思う程私の人生に無くてはならない人になっている。

性格は正反対なのだが、

それこそよく喧嘩もしてきたし、

未だに言い合いになる事もしばしば笑

だけど妹の行動や言葉に救われた事もそれ以上にあって、

最近私が仕事で落ち込んでいる時に、

私が障害者だから健常者のようにはいかなくて辛い気持ちを妹に愚痴った時に、

妹は「姉ちゃんは健常者と同じ仕事をこなしてるんだからそれだけで、その人らより凄いじゃん」て言われた時にドキッとした。

そんな風に考えた事もなかった。

妹は独特の切り口で物事を判断できるところがあり私にとっては妹だけど、時々姉のようにも感じる自慢の妹でもある。

 

亡くなった母に感謝する瞬間は数えきれないくらいあった。

 

まだ生活保護の世話になっている時期は私は

傷病手当てとパートの稼ぎと生活保護で生計を立てていたんだけど、

その後障害者手帳を申請出来るかもしれない事を知る。

 

日常生活に不自由がないだけに障害者手帳とは縁遠いと思っていたし、

偏見があるのは1番は自分で、そこを認めたくなかったのかもしれないが、

手帳があった方が何かと行政の支援を受けやすい事を知ったので、

思い切って申請に乗り切ったのは、それから

再婚して何年か経った頃だった。

 

 

 

 

 

再出発

丁度この頃申請していた傷病手当てが降りたので、それで20万くらいの安い車を買う事にした。

私は生活保護だったので、車は財産とされ所有できないので、少し生活が落ち着き慣れたら、

生活保護も打ち切ろうと思っていた。

傷病手当てと、パートで生活したいと考えていたけど、不安もそれなりにあった。

私にはヘルパー二級の資格しかないので、

老人介護の仕事をまたしたいと思っていたし、それしか出来る事がないと思っていたんだけど、やっぱり他人の手助けをする仕事に今の自分が関わって良いのか、逆に心配されたり遠慮されるようでは本末転倒なので、調理は毎日して感覚を戻していき、

身体介護はイメトレを沢山した。

力は元々あるので、指先を重視しない腕での作業は出来そうな気がしていた。

 

車の運転も左側空間無視が怖かったけど私の場合症状は強くなかったようで、運転も問題なくできた。自分のペースで出来て、ゆっくりと利用者さんと向き合う訪問介護から始めてみようかと漠然と考えるようになりました。

介護業界は高齢社会で人手が足りない事もあり

資格さえあれば即日採用された。

子供達が小学校に行っている間だけでも働いて、足りない生活費はまだ生活保護に頼った。

仕事をする上で車は必要不可欠だったので、市の担当者からは認められたので良かった。

今は普通に子供達と当たり前に暮らせる当たり前の毎日が幸せだった。

一時期は住まわせて貰っていた知り合いと折り合いが悪くなり出たはいいが宿泊先に困り川の近くのコンテナで一夜を明かした夜もあった事を思い出す。

真夏で、大量の蚊に体中噛まれて痒がっていた次女を夜な夜な近くの工場の洗い場に連れて行って気休めに身体を洗ってやった。

翌日、道端で空き家紹介のポスターを見てすぐに不動産会社に連絡し、すぐに内覧をお願いして、その日のうちに契約した。

生活用品も何もないから自転車で長女と100円均一に行って台所用品とかを袋一杯買って帰る途中、袋が破けて、道にぶちまけたな笑

結構遠かったからアパートで、待つ次女は帰ったら泣いて抱きついてきた。住み慣れない場所に1人きりは怖かったと思うけど、あの時はとにかく必死だったから、生きる事に‥。

過去を悔やんでいても仕方なかったので、

これからは1日も早く病気前のような生活に戻すところから始めなくては。

職場では病気の事については自ら言いたくなかったので、聞かれたら言おうと思っていた。

言うと心配されたり、仕事を制限されたりするかもしれないと思ったし、自分からしたらこれくらい大した事ないと思っていたから同情されたくない気持ちが強かった。

仕事をするうちに分かったのだが、

恐らく、脳卒中のもう一つの後遺症に気づき始めていた。

注意力の低下や、判断ミス

物忘れ、メモをマメに取るなど、自分なりに注意しないとうっかりする事が何度かあるのだ、

高次脳機能障害

例えばお年寄りの服薬の確認

日付け間違いや、服薬忘れなど絶対にあってはならない事もこの仕事には多かった。

利用者の体調の把握や引き継ぎなど忘れてはいけない事は早めに準備しておく、目も書きをわすれないなど、ジブなりに工夫するようにした。

携帯電話のスケジュール管理も利用し、予定近くなると通知が来るようにしたり、

ここ3年くらいはSiriも活用し、仕事中にタイマーをかけたりしながら、やるべき事を忘れないようにしている。

何度か訪問先の訪問忘れはあったものの、大事に至るような事は幸いなかった。

訪問忘れも大変な事故なんだけども‥。

スケジュール管理を徹底してからはそれもなくなっていった。

とにかく何でもメモメモ📝

車内には付箋貼りまくり。

退室時の確認作業は3回はするのは当たり前。

なので、時間内に終わらない事は私のメモや確認の時間なんで、納得のうち。

 

 

 

 

 

 

長女の入院

アパートに3人で住むようになってすぐに長女の持病が再発した。

長女はネフローゼという腎臓の病気があった。

不治の病らしく特効薬がないので、普段の食生活には気を使わないといけないのに、ずっとそれどころじゃなかったので、気にかけてやれなかった事を悔やんだ。

診察したところすぐに入院になってしまった。

おそらく再発だと察した私は入院セットを纏めて娘とタクシーに乗り込んでいた。

足もないので、再々の行き来も面会も難しくなるので困ると思った。

最低でも1ヶ月の入院。小学四年生の子供には孤独できついはず。

ただこの子は小さな頃から一緒に修羅場を乗り越えてきた事もあって気丈な事が救いだった。

わたしが脳梗塞で、入院したその日帰らない夜も次の日の朝も冷蔵庫のある物で、飢えを凌いでいたらしい。と言っても炊飯器の残りご飯にふりかけをかけて食べたり、魚肉ソーセージやチーズなど、火を使わなくても食べれる物を妹と食べていたと後から知った。

私が脳梗塞発症前も近所のお祭りに子供だけで行った際に、妹が緑色のジュースを欲しがったけどお金が足りなくて、長女が自分のお小遣いを出して買ってあげた事があった。

2人共300円づつしか持っていなかったから

確実にそれだけで2人共お金がなくなってしまっただろうと思う。

そんな話を後から聞くと胸が締め付けられる。

長女は気丈な子だったけど、妹の方は情緒不安定になってしまった事もあった。

それは実家に住んでいた頃、夕方わたしがタバコを買いに歩いて近所の自販機まで歩いて行こうとした時、30Mくらい歩いた頃だろうか、後ろから泣き喚く声がする。「その人を誰か捕まえて下さい!その人は泥棒です!お願いします!」と言いながら泣きながら追いかけてくる。

つまりは私がどこかへ行ってしまうんじゃないかと思って咄嗟に思いついた手法だったんだと後から思った。

仕方なく一緒にお店まで行き駄菓子を買ってまた実家に戻った。

 

それ以来、次女は小学2年生にして登校拒否を繰り返すようになってしまったのだ。

 

次女にどうして学校に行きたくないのか聞くと、学校に行っている間に母さんが居なくなるかもしれないから

と言う応えに私は驚いた。

確実に私のせいだった。

それでも私は次女を学校へ行かせるのに毎日悪戦苦闘した。

それ以上に親子3人の生活は凄く楽しかった。

裕福ではなかったし、周りの一般的な家庭とは比べるに至らなかったけど、これまでの来るしかった日々を思えば子供達と毎日居る事の生活はこの上ない喜びだった。

長女は結局1ヶ月半入院し、数値も落ち着いたので退院できる事になったが、これからは毎月の通院と、またいつ再発するか分からない不安があった。

 

 

退院後の生活その2

実家での生活はやはり窮屈だった。

片麻痺ということもありスムーズに家事がこなせない。

失敗は付き物で洗濯機の水をホースで汲み上げると持ってる左手のコントロールが効かず水をこぼしてしまったり料理ではじゃがいもの皮むきが一番苦手だった。

大体ピーラーを使うと思いますが左手指に力が入らないので落としてしまう。

なので私は包丁での皮剥きの方がやりやすい。なぜなら右手親指も添えられるからだ。

と、色んな家事をしていく中で失敗も相当していくし工夫することも覚えていった。

ハムの包装もメーカーによっては剥がしにくかったりしたのでつい歯を使ってしまうことも。

ツナ缶は左指爪を引っ掛けたら簡単に開くが最初の頃はツナ缶は絶対開けられないと思っていた。

左で強く押さえて切らないといけない物は難しかったし、特に鶏肉のようにグニュグニュ切るときに動いてしまうものは割と難しいので半冷凍にして切ると楽。

卵は右手だけで割る練習もして出来るようになったけど、殻が入りやすい。

片手だけなので要領が悪い分時間はかかってしまうこともしばしば。

でも料理は好きだったので毎日した。

元々力も強い方だったので重い物は左は下から支えれば持てた。

日常生活動作に関しても問題はなかった。

ペットボトルの蓋も左で強く持っていれば開けれるけど、いろはすみたいな柔らかいボトルは潰してしまいがちなので、気をつけて開けるようにしている。

自分の事でいまだに出来ない事は‥

右手の爪切りくらいじゃないかな。

これに関しては娘に切ってもらう事が多い。

リウマチ用の柄の長い爪切りがあるらしいけど、安くないみたいで、購入には至ってない。

脳梗塞発症前も発症時もその後も私は喫煙をしていたから退院時に主治医から禁煙は必ずするように言われたんだけど、逃げ場がタバコだったから辞めれなかった。

収入源もないのに、嗜好品だけは欠かさず買う人っているよね。どこから捻出してるんだって思うけど、そうゆうお金は意地でも何とかするんだよね。私の場合車を売った僅かなお金と親から借金して凌いでいた。傷病手当てが入るまではできるだけ子供にかかるお金もここからやりくりしていた。

肩身の狭い生活ながら私は実家を出て子供と生活する為に生活保護の申請をするしかなかった。両親にもこれ以上迷惑かけたくない気持ちも強かった。

先の見えない生活、今後どうなるか分からない体の回復具合に、どうしようもない不安に襲われた。

大体の事は出来て日常生活に困っていないなら

いいんじゃないかって思う人もいるかもしれないが、

自分の左手じゃない感覚をコントロールするのに時間はかなりかかった。

力が入らないのに無理やり力を入れようとするので変な方向に指が曲がって、変形してしまっているし、手首は可動域が狭くなってきて筋肉も固くなっていきました。

それでも左手を使ってあげないと本当に動かなくなってしまうので、できるだけ左手を使うようにしました。よくあるのが片麻痺の人で、手をグーにして胸の下に置いている形、こうなると一生使えなくなると思ったので、何をするにも左手を参加させるよう心がけた。戸を閉めるだったり軽い物なら持ってみるだとか、

できそうな事はやってみた。

出来ないと決めて自分に限界を作ってしまう事はしないようにしようと決めていた。

するとこんな左手でも出来ることは無数にある事に気づけて自分の自信にも繋がる。

生保の申請はすんなり通り実家の近くで子供が転校しなくていい距離にアパートを借りた。

かなりボロボロの平屋で汲み取り式のトイレだったけど、私にとってようやく誰にも迷惑かけずに生活ができるという喜びの方が大きかった。

実は実家で母親の軽四を何度か運転した事もあった。右手だけで、ハンドル捌き、左手でもゆっくりならシフトをおろせた。だからひとまず

免許の返納もしない事にした。

 

 

 

退院後の生活

キレキレの動きは難しいけどそれなりには動かせる。

動きはぎこちなく見えるし、初対面の人からは痛そうに見えるらしい。

これが脳卒中の行為症の片麻痺というやつに私はなってしまったんだ。

あの時もっと早く病院に行っていたら‥。

私が馬鹿だからこんな病気の予防もできずに、

症状が出てからなんて遅すぎるに決まってる。

 

 

しなやかで自然な動きが難しいがあまり左手を意識しないようにしていた。痛みはないので重い物は手のひらで支えれば持てるし、掴めるが力の入れ具合の調整ができないので、掴みすぎて、柔らかい物は潰してしまう。

 

毎日リハビリを続け最初の入院から半年が経ち症状も固定され、加療も終わったのでめでたく退院になったが、ちっともめでたくないし嬉しくなかった。らんちゃん似のおばさんとは連絡先を交換して一足先に退院した。

 

たちまち実家に戻ったが以前乗っていた車はもう売られていたし、医者からは車の運転は出来ないし仕事もできないので今後の生活についてご家族と話し合った方が良いと言われた。

何を話し合うんだろう。廃人のような生活を毎日送るしかないの?

私は負けず嫌いだったからそんな医者の言葉は間に受けていなかった。

私はは30歳という若さで絶望を味わった。

もう半分死んだと思って生きていくしかない。

これからどうやって生きていけばいいんだろう。

子供二人はどうやって育てていく?

一体何の因果応報なの?

考えても考えても絶望しかない。

真っ暗闇の中にいる気分だった。

収入源もなく両親に頼りっ放しで申し訳ないし側から見たらニートのような生活をしている自分が情けなかった。

このままじゃいけないと思った。

娘たちにも頑張るお母さんの姿を見せたかったしいつも思うようにいかない気持ちがさらにイライラさせ、

母親とはよく口論にもなった。

とにかくできることから始めよう。

毎日夕方からウォーキングをすることにした。

幸い左足は麻痺が軽かったので歩行に支障はなかったけど実家の狭い階段は一段ずつしか昇降できなかったけど一月もすれば普通に登れてた。

発症前は正社員で働いていたので、前職の上司が傷病手当ての手続きを勧めてくれ

すぐに手続きをした。

 

発症

今から18年前、私がシングルマザーで娘2人の子育て真っ最中の話からします。

介護施設で働いていた私はこの2.3日体調が思わしくなかった。

自分の体が自分でないような感覚。それは、何もしていない時でも、歩いていてもなんだかボーっとする。めまいのような、フワフワするというか、車を運転していてもコントロールがきかない。

左ばかりを縁石にぶつける事も何度もあった。

介護の仕事をしているのに自分の事には無頓着で、その日その日をただ生きているだけの毎日だった。

数年前に離婚して、出戻った実家を追い出されてから親子3人で安住を求めて生きてきた。

私は29歳、長女9歳次女7歳の10月私は脳梗塞を発症した。

勤務中左手の力が全く入らなくなり、

動かす事すらできない。それに気付いた上司の計らいですぐに病院に行く事に。

そう言えば、昨夜、家でトイレに立とうと思い、立ち上がれなくて、娘達に笑われながら、

手伝ってもらったけど、結局立ち上がれなくて粗相してしまったと言う事があった。恥ずかしいけど、それどころじゃなかった。

左手は使えないから右手だけで運転して国立病院へ向かいました。

多分一時的な何かだろうなと思っていた

自分が今思えばあまりにも無知すぎて腹が立つ。

病院ではあらゆる検査をされた。この時はまだ脳梗塞だとは思ってもみなかったし、医師からもそんな話はなかった。

胃カメラ、大腸カメラ、MRIにCT

一通りの検査を終え私は入院になった。

病名は脳梗塞

ただ原因がわからない。血栓が飛んだわけでもなく、若かったので症例もあまりないらしくもっと詳しく検査をしたいらしいが、この病院では限界があるらしく、ひとまず、点滴治療をされる。

発症して72時間以内なら後遺症も出ないらしいが、私の場合自覚症状から3日以上経っていたので、点滴治療をしてもあまり意味がないみたいで、標準治療をしながらの経過観察するようでした。

絶対安静の為、導尿され、自由に歩く事もできず、ひたすらベッド上で過ごすのみ、

今朝いつものように小学校へ行った娘達はもう家に帰ってるだろう時間。

私が帰らなくて心配してないだろうか、

あの小さくて狭くて古いアパートで、小さな2人は泣いてないだろうか。

携帯電話が今の時代のように必需品ではなかったので、携帯電話はアパートに置きっぱなしだった為、どこへも連絡ができない。

いつものように仕事が終わったら帰る予定だったし‥。

夕方会社の同僚が様子を見に来てくれた。

看護師に両親の連絡先を教え、今の状況を伝えてもらった。

自分で自分がどういう状況なのか理解出来てなかった。

入院になるくらいだから大変な容態だったのだろう。

常に頭がボーっとしていて、正しい判断も思考も停止している感じがした。

ただ家の事だけは心配だった。3日経った頃だと思うが両親が来て、子供は保護し、一旦連れて帰るとのこと、

入院して1か月経った頃、もっと大きい県外の病院へ転院が決まった。

なんとドクターヘリで移動するらしい。

そんなに緊急を要するのか?自分の状況があまりよくわかっていなかった。

転院先に到着するとすぐに聞きなれない検査を次々にされた、毎日‥。痛い検査もされた。

まな板の上の鯉状態

 

私はいわゆるできちゃった結婚で周りに反対されるどころか呆れられて結婚、出産した。

周りからは「若いお母さんだね」

私より若いのに、うちより子供大きいんだね。

なんて言われるのが嫌だった。

大恋愛して好きな人の子供を産んで幸せに暮らす。それだけで私は良かったのに、

生活はそんなに甘くないよね。

若いから無知で、経験もなけりゃ、失敗もそれほどしてきていない。全てが困難で、全部知らない事、初めてな事だらけ、

子供の定期健診や、予防接種、月齢に合わせた食事、何も分からないからつまづいた。

歳の近いママ友みたいな人はいなくてみんな歳上過ぎたから友達みたいにはなれなかったし、話も合わなかった。

公園デビューってやつをしてから毎日16時になると子供の為に仕方なく公園で遊ばせながら自分は歳上のお母さん達と世間話をする。世間話の仕方さえ分からないから変な事言って爆笑されたりもした笑笑

夫も3つ上でまだ若かったから遊びたい盛りで、大勢の友達連れて夜中までうちで飲んで騒いで、くらいまではまだ良かったけど、

最終的には浮気や金銭問題で離婚する事になった。

今なら我慢できたのになぁと思う事もまだ子供だった私には耐えれなかった。

小さな子供連れて、実家と友達の家を出たり入ったり‥。

他人と暮らすと気を使うし、実家は居心地が悪かったので、自分でアパート借りて住むようになって1年くらい経った時だった。

離婚から6年程経ち、保育園に行っていた娘達は小学生になっていた。

仕事も順調で、上司からは早く次の資格を取って昇進していこうって期待もされていた29歳の10月から入院して2か月が経とうとしていた12月、誕生日にクリスマスに年末年始、私の一年で1番大好きな12月をこんな暗い病室で過ごすのかな‥。とまた更に落ち込んでしまう。

脳梗塞を発症してからずっと左手は動かないし、頭はボーっとしたまま。おそらく毎日の日課の点滴治療が終わったら動くようになるんだろうとこの時は思っていた。

誕生日やクリスマス年末年始をこんな形で過ごす事になる日が来るとは、思いもしなかった。

入院から4ヶ月が経った頃地元の病院にリハビリ目的で転院する事になった。

地元では有名な脳の専門病院だった。

ここで、早くて1ヶ月リハビリを頑張ればまた元の生活に戻れる!と少し気持ちが前向きになり始めた。2人の娘に手紙を書いた。

「母さんが退院したらニモの映画を観に行こうね!お金あんまりないけど、お小遣いだよ。200円づつ入れておくね」

今度両親と娘達が面会に来た時に渡そうと思った。

私の病室は4人部屋で、隣の中年のおばさんは顔面神経痛で、脳を開いて、神経を剥がす手術をしたらしく頭には包帯が巻かれていた、その向かいの人はカーテンがいつも閉まっていてどんな人か声しか分からなかったけど、年配の方のようだった。

この頃点滴は一日一回になり量もかなり減った。導尿もすぐ取れたので、入浴やトイレも自由に行けるようになった。そろそろリハビリも始まるはず、リハビリすれば、左手は以前のように動くと信じていた。

 

私の向かいの40代くらいの人は脳出血で、一命は取り留めたものの左脳の後遺症で言葉がうまく話せないけど、キャンディーズのらんちゃん似の可愛らしい人で、その人とはよく話をしたりテレビを見たり、リハビリ室の自転車を一緒に漕ぎに行ったり、入院生活のたいくつさを紛らわせてくれる存在になっていた。

ある日トイレに行った時の事

歌でも歌ってみるか‥。

お気に入りの歌のワンフレーズを口ずさむ。

あれ?音がおかしい。

歌は得意でカラオケに行くと必ず褒められていたのに、自分で分かる程めちゃくちゃ音痴すぎる。まず出だしの音から分からない。

え?    歌が歌えない‥。

ま、いっか、しばらく歌う事をしてないからだろう。

いつもあれ?おかしいなと疑問に思った事を

自分の事になるとそれほど追求しない所も私の良くない所だと思う。

 

数日経ちリハビリが始まった。

何が1番できるようになりたいですか?

と聞かれ、自分の事は自分でしたいし、料理は普通に作りたい。

と答えた。

腕は動くけど指先の細かい動作は出来なかった。

例えば、小さな物は掴めないし、指先に力が入らないので、お茶碗すら持てない。

ピース✌️もできないのだ。

脳梗塞の行為症で腕が脱力している人もいるが、私の場合は緊張型だったので、

何かに手を添えて動かすくらいはできた。

指先を使う動作でなければ、大体の事ができたのはまだ若かったというのもあったかもしれない。